きくお氏「幸福な死を」についての考察
1.はじめに
おはこんばにちは。ロロロルと申します。
今回は、きくお氏の「幸福な死を」について、つらつらと、僕の個人的な考えや感想等を書かせていただこうと思っております。
そもそも、前提として、僕は「ボーカロイド曲」を普段あまり聴きません。ですから、知識不足な面があるかもしれません。その所をご承知おきください。
さて、「何故ボカロを普段聞かないロロロルがこんな記事を書くに至ったのか? 」ということに関して、次のスクショをご覧ください。
僕の裏垢のTLにこのようなツイートが流れてきたので、「せっかくだから聴いてみるか」と思い、曲をかけてみたところ、その複雑な歌詞に驚いた、というのが正直な感想です。
この後、僕は裏垢で「幸福な死を」についての解釈を展開していくわけですが(大迷惑)、せっかく生み出した解釈をそのままにしておくのはもったいないなあと思い、この記事を書かせていただくに至った次第です。
さて、前置きはこれくらいにして、本題に入っていきましょうか。
と、その前に、「幸福な死を」に関するリンクを貼っておきますね。
2.解釈
A.定義
これから解釈を進めていくうえで、僕が設定した言葉の定義を説明します。
現世:いま、私たちが暮らしているこの世界のこと。生者の世界。
1番:「地獄に落ちたら ~ 僕に今 幸福な死を」の部分。
2番:「私 私 ~ 君にも幸福な死を」の部分。
あの世:天国+地獄。死者の世界。
B.仮説
さて、僕が「幸福な死を」について考えた仮説は以下です。
①登場人物は二人。「僕」と「私」
②1番は「僕」が語り手、2番は「私」が語り手
➂「僕」が「私」を殺した
④「私」は「あの世」にいて、「僕」は「現世」にいる
⑤「僕」は 自分自身は「地獄に落ちるべきだ」と考えている
⑥「僕」は 「私」が「天国に行ったはずだ」と思っている
⑦「僕」は「地獄」で罪を償ってから「天国」で「私」に再会しようと思っている
⑧「私」は地獄にいる
⑨「私」は 「僕」が「天国に行くはずだ」と思っている
⑩「私」は「地獄」で罪を償ってから「天国」で「僕」に再会しようと思っている
⑪「僕」も「私」も二人とも、「天国で再会することが幸福な死」だと考えている
これから、この仮説を一つ一つ検証していきたいと思います。
C.検証
①登場人物は二人。「僕」と「私」
この曲の登場人物は二人であると考えられます。何故なら、「僕」と「私」という二つの一人称が登場しており、それぞれ
「僕」:
楽に 楽に 絞めてと乞う君が好き
もっともっと強く絞めてと 幼な声で喘ぐ君が好き
「私」(カッコ内はロロロルの解釈):
私 私 このまま死にたい (その願いに)素直に応える純な君が好き
と好みが異なっていることから、「僕」と「私」は分けて考えるべきだということが分かります。この解釈から言うと、「僕」は所謂「S」で、「私」は所謂「M」であることが分かりますね。
②1番は「僕」が語り手、2番は「私」が語り手
①から、この話の登場人物が「僕」と「私」であることが分かりました。さて、ここで、「僕」という歌詞は1番に、「私」と言う歌詞は2番しか出てこないことに気づいたでしょうか。つまり、1番と2番では、主語が入れ替わっているのです。ここから、1番が「僕」視点であること、2番が「私」視点であることが分かるはずです。
➂「僕」が「私」を殺した
②から、1番の歌詞が「僕」目線であること、2番の歌詞が「私」目線であることが分かりました。そこで、ここからは、その知見に基づいて解釈してゆこうと思います。
1番の歌詞から(カッコ内はロロロルの解釈)、「僕」は
楽に 楽に 絞めてと乞う君(=「私」)が好き
もっともっと強く絞めてと 幼な声で喘ぐ君(=「私」)が好き
か弱い声で さよなら ありがと と囁いて(君(=「私」)は)死んだ
と語っており、また、2番の歌詞から(カッコ内はロロロルの解釈)、「私」は
私 私 このまま死にたい 素直に応える純な君(=「僕」)が好き
嬉しそうな声で これでいい? 気持ちいい? と囁いて(君(=「僕」)は私を)殺してくれた
と語っています。この二つのことから、「僕」が「私」を(二人の合意の下で)殺したという構図が見えてきます。
④「私」は「あの世」にいて、「僕」は「現世」にいる
1番の歌詞から(カッコ内はロロロルの解釈)、「僕」は
純粋な君(=「私」)は天にいる あの世が虚無ならそこへ(「僕」は)行こう
会いたい 会える? 僕に今 幸福な死を
と語っており、また、2番の歌詞から(カッコ内はロロロルの解釈)、「私」は
純粋な君(=「僕」)は天に来る 罪が晴れるならそこで会おう
おいで おいで 君(=「僕」)にも幸福な死を
と語っていることから、「私」は「あの世」にいて、「僕」は「現世」にいる事がわかります。また、「僕」は「そこへ行こう」とも語っているので、おそらくは、これから「私」の後を追って死のうとしているのではないか、という推測が出来ます。
⑤「僕」は 自分自身は「地獄に落ちるべきだ」と考えている
「僕」視点で語られている1番の歌詞で(カッコ内はロロロルの解釈)、
地獄に落ちたら(僕は)救われる
僕に 罰を 地獄で与えておくれ
とあります。ここから、「僕」は地獄に落ちて、そこで、現世で犯した罪に対して罰を与えてもらうことによってむしろ「救われる」と考えていることが読み取れます。現世で犯した罪とは何か。それは➂の「僕」が「私」を殺したことにあるのではないでしょうか。
⑥「僕」は 「私」が「天国に行ったはずだ」と思っている
「僕」によって語られる1番の歌詞に(カッコ内はロロロルの解釈)、
純粋な君(=「私」)は天にいる
とあります。つまり、「僕」は「私」のことを「純粋」と思っており、それを根拠として「私」は「天(=「天国」)」にいるはずだと思っているのです。
⑦「僕」は「地獄」で罪を償ってから「天国」で「私」に再会しようと思っている
⑤「僕」は 自分自身は「地獄に落ちるべきだ」と考えている と、
⑥「僕」は 「私」が「天国に行ったはずだ」と思っている を踏まえて、
地獄に落ちたら(「僕」は)救われる 天国昇ればまた(君(=「私」)に)会える(はずだ)
という歌詞(カッコ内はロロロルの解釈)を読み解くと、「僕」は「地獄」に落ちる事によって「現世」での罪を償うことが出来、それによって天国に昇れたならばまた「私」に会う事が出来るだろう、と考えていることが読み取れます。
ここで、一つ興味深い考え方があるので紹介します。
仏教において、地獄の苦しみとは、どんな苦しみなのでしょうか。答えはこのようなものらしいです。
「自らのたねまきが生み出した報い」*1
つまり、地獄の苦しみとは、自らが行ったことに対する、自らの罪の意識が生み出した苦しみなのです。とするならば、歌詞の意味がより分かりやすくなるのではないのでしょうか。
地獄に落ちたら(「僕」は)救われる 天国昇ればまた(君(=「私」)に)会える(はずだ)
「僕」はこうも語っています(歌詞のカッコ内はロロロルの解釈)。
純粋な君(=「私」)は天にいる(はずだ) あの世が虚無なら(「僕」は)そこへ行こう
つまり、「純粋である(と「僕」は思っている)「私」」は自戒の念に苛まれないし、苛まれる必要もないわけであるから、「私」は「天国」にいるはずであって、「僕」は自らの罪の意識に苛まれるであろうけれども、「地獄」で自業自得の罰を下されることによって、その罪の意識はむしろ消えてゆき、それによって「僕」自身が「天国」へ昇ることが出来るであろうから、地獄で耐えて、天国に行き「私」に会おう、と「僕」は決意しているわけです。究極の愛の形。
⑧「私」は地獄にいる
さて、一方の「私」。「私」視点の2番の歌詞(カッコ内はロロロルの解釈)を読み解いてみると、やはり「私」も罪の意識に苛まれていたであろうことがわかります。
私に罰を 地獄で与えておくれ
純粋な君(=「僕」)は天(=「天国」)に来る (「地獄」で)罪が晴れるならそこ(=「天国」)で会おう
④から、「私」は「あの世」にいて、「僕」は「現世」にいることが分かりましたが、「(「地獄」で)罪が晴れるならそこ(=「天国」)で会おう」「私に罰を 地獄で与えておくれ」という所から、「私」は「地獄(=「自らのたねまきが生み出した報い(=自身の罪の意識が起因の罰)」を受ける場所)」にいることが分かります。
ここで気になるのは「来る」という表現。ここから「私」は「天国」にいるのではないか、という推論が成り立つようにも思えます。そこで「来る」を辞書で調べてみると、次のように書いてありました。
1 空間的に離れているものが自分のいる方・所へ向かって動く。また、近づく。
㋐こちらに近づいたり着いたりする。接近・到着する。訪れる。「バスがきた」「留守に友人がきた」「霜のこないうちに取り入れを済ませる」*2
つまり、自分のいる方・所へ近づけば「来る」と言う表現がなされ得るわけであり、「私」のいる「あの世」に「僕」が「現世」から「来」れば、「来る」という表現が成り立ち得るわけです。すなわち、「私」が「地獄」にいると仮定しても、論理は破綻しません。
⑨「私」は 「僕」が「天国に行くはずだ」と思っている
これは⑥の 「僕」は 「私」が「天国に行ったはずだ」と思っている と同様に考えることが出来ます。「私」視点である2番の歌詞(カッコ内はロロロルの解釈)を見てみましょう。
純粋な君(=「僕」)は天に来る
つまり、「私」も「僕」のことを「純粋」と思っており、それを根拠として「僕」は「天(=「天国」)」に来ると思っているのです。二人とも、互いを尊敬しあっているんですね。あるいは恋人同士である二人は、互いの姿に理想を見るものなのかもしれない、とさえ考えてしまいます。
⑩「私」は「地獄」で罪を償ってから「天国」で「僕」に再会しようと思っている
これもまた⑦の 「僕」は「地獄」で罪を償ってから「天国」で「私」に再会しようと思っている と同様に考えることが出来ます。つまり、「私」は「地獄」で罪を償ってから「天国」で「私」に再会しようと思っている のです。
地獄に落ちたら(「私」は)救われる 天国昇れば(君(=「僕」)に)また会える(はずだ)
私に罰を 地獄で与えておくれ
純粋な君(=「僕」)は天に来る(はずだ) 罪が晴れるならそこで(君(=「僕」)と)会おう
この歌詞(カッコ内はロロロルの解釈)は⑦で説明した歌詞と(立場は違えど)重なることが分かります。
⑪「僕」も「私」も二人とも、「天国で再会することが幸福な死」だと考えている
最後はタイトルに帰着するような仮説です。つまり、「幸福な死」とは何だったのか? という問いに対する答えのひとつです。
⑦において、「僕」は「地獄」で罪を償ってから「天国」で「私」に再会しようと思っている わけであり、また、⑩において、「私」は「地獄」で罪を償ってから「天国」で「僕」に再会しようと思っている わけです。つまり、二人とも「自分の罪を償って、自分の理想たる「純粋な」君(=「僕」/「私」)と天国で再び邂逅すること」を「幸福な死」と考えている、と言えます。
これによって、1番の「僕」視点の歌詞(カッコ内はロロロルの解釈)
純粋な君(=「私」)は天(=天国)にいる(はずだ) あの世が虚無ならそこへ行こう
僕に今 幸福な死を
が、「これから「あの世」へ行き、「地獄」で罪を償って「幸福な死(=彼女と天国で再会)」を実現させたい」と読み解く事が出来、また、2番の「私」視点の歌詞(カッコ内はロロロルの解釈)
純粋な君(=「僕」)は天(=「天国」)に来る(はずだ) 罪が晴れるならそこで会おう
(「あの世」に)おいで おいで 君(=「僕」)にも幸福な死を
が、「「地獄」で罪が晴れるならば「天国」に行くことが出来るから、そこで二人会って「幸福な死」を迎えよう、だから「あの世(=「私」がいる世界、死者の世界)」においで、いつか「私」は罪を晴らして「天国」に行こう」と読み解く事が出来るわけです。つまりは、二人とも「天国で再開することが幸福な死」だと考えているのです。
3.結論
この記事では、「幸福な死を」について、僕の解釈をつらつらと書いてきました。
そして、繰り返しになりますが、2.で述べたことから、以下のことが言えるのではないでしょうか。
①登場人物は二人。「僕」と「私」
②1番は「僕」が語り手、2番は「私」が語り手
➂「僕」が「私」を殺した
④「私」は「あの世」にいて、「僕」は「現世」にいる
⑤「僕」は 自分自身は「地獄に落ちるべきだ」と考えている
⑥「僕」は 「私」が「天国に行ったはずだ」と思っている
⑦「僕」は「地獄」で罪を償ってから「天国」で「私」に再会しようと思っている
⑧「私」は地獄にいる
⑨「私」は 「僕」が「天国に行くはずだ」と思っている
⑩「私」は「地獄」で罪を償ってから「天国」で「僕」に再会しようと思っている
⑪「僕」も「私」も二人とも、「天国で再会することが幸福な死」だと考えている
4.追記
http://www.nicovideo.jp/watch/sm17961470?from=230
上のリンクをクリックして、目を凝らしてよーく見てみてください。
地獄に落ちたら救われる 天国昇ればまた会える
私に罰を 地獄で与えておくれ
と言う歌詞が、一瞬だけ
地獄に落ちたら救われる 天国昇ればまた会える
僕に罰を 地獄で与えておくれ
となっているのが分かります。
これについて、僕は、「お互いがお互いのことを「天国」にいるはずだと信じ、自分は「地獄」に行くべきだと信じ、自分の「現世」での罪を「地獄」で晴らし「天国」で「幸せな死を」迎えよう」と考えている、というヒントであると考えます。つまり、僕の結論のような考えを導くための「支柱」であり「補助輪」であると考えます。逆に言えば、この「ヒント」が僕の仮説をより強固なものにする「根拠」となり得るのではないかと思います。
「歌詞を入れ替えても曲として成立する」ーーこのことは、「僕」と「私」が同じようなことを考えているからこそ成り立ちます。言い換えれば、二人はそれだけ考え方を共有していた/いる 、つまり真に愛し合っていた/いる と考えられるでしょう。
5.おわりに に変えて : きくお氏の意図を想像してみる
さて、ここまで考えた時、僕はそもそもの前提に疑問を抱きはじめました。つまりはどういうことかというと、「何故、一方は死に、一方は生きていなければならなかったのか」ということです。④でも述べたとおり、「僕」はすぐに「私」の後を追うことが推測できます。ならばなぜ、二人が死んだ世界を曲に描かずに、「一方は死に、一方は生き」ている状況を切り取り曲にしたのでしょうか。
ここで、
A.二人とも生きている時
B.一方が死に、一方が生きている時
C.二人とも死んでいる時
に場合分けをしてみます。
A.二人とも生きている時
曲にも描かれていますが、二人とも生きている時は、互いのことをリスペクトしているものの、まだ「死」に直接触れているわけではないので、「あの世」へ向かう覚悟のようなものは描きづらいです。
B.一方が死に、一方が生きている時
これが「幸福な死を」でメインに描かれている世界です。互いのことをリスペクトし、また一方が死んでいることで死に対する様々な思いが生き生きと描き出されます(死に対して生き生きとは皮肉ですね)。この死に対する思いとしては、「二人で一緒に「天国」で再会したい」という、前向きな、「希望」のようなものが含まれています。
C.二人とも死んでいる時
これは全く描かれていませんが、「僕」が「あの世」へ行ったならば、「地獄」に落ちないわけがありません。そして④でも述べたとおり、「彼」はすぐに「あの世」に行くでしょう。とするならば、「私」が「地獄」で罪を償いきれぬまま、二人は「地獄」で再会することになるでしょう。⑪でも述べましたが、二人にとって「幸福な死」とは「自分の罪を「地獄」で晴らし、「天国」にて再会する」ことであり、罪を晴らさずに地獄で再会することは、相互のリスペクトがぶっ潰される、B.で述べた言葉を借りるならば「希望」が潰える、二人にとっては最悪の結末です。つまり、この二人の結末はバッドエンドでしかありえないのです。
A.~C.を見てきましたが、この中で実際にはB.の場面が描かれている という事から、ドラマティックに描ける瞬間で、かつ、ほんの一瞬「希望」のようなものが見えた瞬間を、きくお氏は鮮やかに切り取っている、ということが出来るでしょう。
ここに、きくお氏の意図が見いだせるのではないでしょうか。何故、敢えてそのような瞬間を描いたのか。その理由を考えることは、それこそ想像の領域になるのではないでしょうか。「二人の結末はバッドエンドでしかありえないのだから、つまりこれは「希望」を抱くことの空虚さを描いている! 」と読み取るのか、「愛し合う関係そのものが罪で、それに起因する儚くも美しい悲劇を描いている! 」と読み取るのか、はたまたーー