意気消沈して曰く

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表現できない「何か」を言葉に変えるために

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語彙力って、あった方がいいの?

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こんにちは。38.6℃のロロロルです。

なんで休日に限って風邪をひいてしまうのだろう*1

 

今日書こうと思っているのは「語彙力って、あった方がいいの?」ということです。

僕は文芸部(活動はユルい)に入っているので、たまーに、このことについて聞かれるんですね。なので、僕の考えをまとめておこうかな、と思い立って、こうして筆を執っている次第です。

 

結論から言うと、僕は、語彙力はあった方がいいと思います。そう考える理由は二つあって、一つ目は、概念を導入することができるため。そして二つ目は、思考速度が速まるからです。

 

みなさんは、いわゆる「語彙力がある」人に対してどんな印象を持っていますか? 「難しいことを言っている」「理解不能」などという意見が挙がるでしょうか。どうしてそのように感じてしまうのか、ということについて、僕はこの二つの理由で説明がつくと考えます。

 

まず、一つ目の「概念を導入することができる」ことについて話したいと思います。

先ほど僕は、語彙力がある人に対して、「難しいことを言っている」と書きましたが、実は「難しいこと」は、語彙力がなくても言い表すことができるんです。

例えば、野党が声高に与党の政治を批判しているとしましょう。その様子を見て、語彙力のある人は「彼らのやっていることはアジテーションに過ぎないね」などと言ってのけるかもしれません。しかし、語彙力の無い人だって、「彼らのやっていることは、強い言葉を使ってみんなの感情を高め、自分たちの言うことに賛成させるように仕向けているに過ぎないね」と言うことはできる。ならばなぜ、語彙力のある人だけ「難しいことを言う」ことができるのか。

冷静になって考えてみてください。先ほど僕は「彼らのやっていることは、強い言葉を使ってみんなの感情を高め、自分たちの言うことに賛成させるように仕向けているに過ぎないね」と書きました。しかし、これを言うことができる人が、はたしてどれだけいるのか。きっと普通なら、「うーんと、あいつらのやっていることは、なんていうか、感じ悪いよな」くらいしか言えないのではないでしょうか。恐らく、「彼らのやっていることは~」などど言えるのは、もともと「アジテーション」という言葉を知っていたか、それに近い概念を持っていた人にしかできないはずです。つまりは、一度「アジテーション」的なことに考えが至ったことのある人でないと、「アジテーション」的なことを言い表すのは難しいのです。そして、僕が主張したいのは、言葉を知るということは、その言葉の纏う「概念」を知るということであり、「概念を知った」人でないと、その「概念」的なことを思いつくのは難しいのではないか、ということです。

「概念」というところに注目して、別の例を挙げてみます。

あなたは夫と二人暮らしをしている妻だとしましょう。念願かなってマイホームで暮らせることになって、今は引っ越しの準備をしています。そこであなたは、新聞紙をまとめたものを、ゴミ出しに行くのを忘れていたことに気付きました。しかし今あなたは手が離せない仕事をしている。そこで夫に「ちょっとこれゴミ出しに行ってくれない?」と頼みました。少し時間が経って、仕事が終わったあなたは、ふと顔を上げます。なんとそこには、困った顔をして、新聞紙を抱えて立っている夫の姿が! 夫は申し訳なさそうに言います。「これ、どこに出してくればいいの……?」

これが語彙力となんの関係があるんだ、という人がいるかもしれません。しかし、なんと、語彙力の無い人はこの状況で怒りだして、語彙力のある人はこの状況で怒りを抑えられる、ということが考えられるのです。は? どういうことだよ、と言いたくなるかもしれません。説明しますね。

怒りを抑えることができる、語彙力のある人は、よーく注目すると、もしかしたらこんなことを呟いているかもしれません。「ハンロンの剃刀、ハンロンの剃刀……」と。

 

ハンロンの剃刀(ハンロンのかみそり、Hanlon's razor)とは、次の文で表現される考え方のことである。

Never attribute to malice that which is adequately explained by stupidity.
無能で十分説明されることに悪意を見出すな[注 1]

ハンロンの剃刀 - Wikipedia

つまりは、語彙力のある人は、「ハンロンの剃刀」という言葉を、ないしはその考え方を知っているので、怒りを抑えることができるかもしれない、ということなのです。

まあ、これはさすがに極端な例なのですが。つまり、このたとえ話で僕が何を言いたかったかと言うと、繰り返しになりますが、言葉は概念を纏うし、その概念を知る人は、その概念"的"な状況に際して、それを言い表す概念を想起し、当てはめることが容易になる、ということです。この意味において、言葉を知るというのは、概念を自分の脳にインプットすることに等しいと言えるのではないでしょうか。

 

二つ目の「思考速度が速まる」ことについて話しますね。

これは極めて簡単な話で、先ほどの野党の例を見てみれば一目瞭然です。語彙力のある人は、「彼らのやっていることはアジテーションに過ぎないね」という具合に、「アジテーション」という言葉を足掛かりにして、状況を言い表すのに最短距離を取ることができています。しかし、語彙力の無い人は、「彼らのやっていることは、強い言葉を使ってみんなの感情を高め、自分たちの言うことに賛成させるように仕向けているに過ぎないね」という具合に、回り道をすることでしか状況を言い表すことができません。このことが、思考速度に差を与えるのは明白です。

ちょうど数学における公式のようなものかもしれませんね。公式を覚えなくても、段階を踏めば問題を解くことができる場合は多いですが、公式を覚えたならば、その問題を解くスピードは格段に上がります。この意味において、語彙力があるというのは、公式を多く覚えているのと同じようなものかもしれません。

そう考えると、語彙力がある人に対して「理解不能」と思ってしまうのも、無理はないように思えてきます。つまりは、思考速度に差があるのですから、一つのことを理解している間に、語彙力のある人は二つ三つと話してしまっている。理解が追いつかなくなって、最終的に「理解不能」となってしまうのも、道理であると思います。

 

ところで、同じ数学で例えるならば、一つ目の「概念を導入する」というのは、ちょうど「方針」にあたるのかなと。つまりは、二次方程式があったとして、それをグラフとして見る「概念」が脳にあったならば、解ける問題は格段に多くなります。

いずれにしても、語彙力があるというのは、それすなわち「概念を多く導入している」ということでありますし、「思考速度が速い」ということになりますから、大切なことではないかと僕は思います。